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 ◎400年の眠りから覚めた秀吉の第一声は?

                  

 暑い。とにかく暑い。記録的酷暑である。クーラーの温度をいつもより少し低めにし、頭を冷やして書き始めることにしよう。今日は8月18日。あの秀吉が伏見城で亡くなったのが421年前の今日。波乱万丈62歳の生涯であった。冷房も扇風機も無い時代である。病床には淀殿、秀頼が。付き人が少し大きめのウチワで風を送る。少し離れたところでは大老や諸大名が扇子で暑さをしのぎながら、緊張した面持ちで最期を見守る。障子もふすまも開け放たれてはいるものの「暑い」。男は袖をまくったり袴の紐を緩めて少し風を入れることはできても女は小袖を脱いだり腰ひもを緩めたりはできない。ビールもポカリスエットも無い。熱中症の患者が出てもおかしくない暑苦しくて重苦しい状況が続く。さらには秀吉が頻繁に漏らすオシッコの臭いが漂う。側近の中には表向きは延命を祈りつつも心の内では「早く・・・・」と願っている者は少なくなかったのでは。▲秀吉の体調は同年5月京都醍醐寺での壮大な花見会の後から急に悪化。病名や症状についての決め手となる記述は残されていないが心臓や肺などの循環器系の病ではなく、消化器系か泌尿器系が主因とされている。泌尿器系が疑われている理由は彼の好色(女好きと多淫性)。失禁、尿漏れ、頻尿の症状は事実のようだ。死因については大腸がん・脚気・尿毒症・梅毒・腎虚など諸説あり。▲死の数日前、見舞いに訪れた宣教師のジョアン・ロドリゲスによると「人間とは思えぬほどの衰えよう。もうボロボロだった」と。あの有名な辞世の句「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」は死の直前のボロボロ状態で詠まれたとは思えない。あらかじめ用意されていたか後日誰かによって書かれたものだろう。▲秀吉が死の直前まで思い悩んでいたことは「息子秀頼の行く末と豊臣家の安泰」であることは歴史家の共通見解である。
▲病床に家康をはじめ五大老、有力大名を呼び、「秀頼のこと頼み申す」を繰り返した。最も恐れていたのが家康の動きである。▲秀吉の死後、危惧していたことが次々と現実のものとなっていく。関ケ原、冬の陣、夏の陣で敗れ、秀頼・淀君の自害をもって豊臣家は滅亡。
〇さてここからは私の独断と偏見の「真夏の夜の夢」。時は2019年8月18日。421年の長い眠りから覚めた秀吉はまず周囲をぐるりと見渡す。目、耳、鼻の感度は確か。オツム(頭)も冴えてきた。臨終の枕元にいた側近の気配はない。障子やふすまは全部開かれている。得体のしれない騒音とキナ臭いにおいが漂っている。車の騒音や排気ガスとは知る由もない。サテ第一声は? 確率の高い順に3つ挙げてみよう。①「この騒音と匂いは?家康の奴メとうとう兵を挙げたか!」②「秀頼はどこじゃ」③「淀はどうした」
◎声を出す前に喉の調子を整えようと「エヘン!」とひとつ咳払い。はずみで下半身にも力が入った。その瞬間オシッコが漏れた。
~~~「早くオムツを替えてくれ。もう我慢できん」~~~
本人も予期せぬ第一声となってしまった。